多田銀銅山
 
「銀山に行けば生活にいるものは何でも買える」。こう呼ばれ、多田銀銅山が最も隆盛したのは江戸時代。銀山には代官所が置かれ、大量の銀や銅が採掘されました。大仏造立の際の銅の寄進伝承、豊臣秀吉の埋蔵金伝説と多田銀銅山のロマンはいつの時代も人々を魅了し続けます。
 江戸時代の最盛期、「銀山三千軒」と称され、採掘の一大拠点となった多田銀銅山。この地でどれほどの人々が財宝採掘、天下統一の壮大な夢を思い描いたのでしょうか。
 摂津一帯に広がる多田銀銅山の伝承は数多くあり、その始まりは不明ですが、奈良時代、大仏造立の際に銅が寄進されたと伝えられ、平安時代には源満仲が銀銅山を目当てに多田庄を開いたともいわれています。
 本格的に鉱山開発と経営が始まったのは、豊臣秀吉の時代です。陣屋を置くなど積極的な開発で大量の銀が採掘され、大坂城の台所を潤すほどの産出量があったといわれる「台所間歩」という名が付けられました。そして江戸時代、幕府の直轄領となった銀銅山は最盛期を迎えます。「大口間歩」を中心に採掘された銀や銅は、寛文4年(1664年)、出銅高75万5846斤(きん)8分7厘5毛『約453・5トン』、出銀高1500貫目(かんめ)『約5・6トン』と頂点を記録したのです。
 明治以降には資本家が参入し、採掘は昭和48年まで継続しました。豊臣秀吉の埋蔵金伝説など、神秘とロマンに彩られた多田銀銅山は、閉山した現在もわたしたちを魅了し続けています。
「銀銅山の歴史」
       
  742年   奇妙山神教間歩(川西市域)より東大寺大仏鋳造の銅を献上(伝承)  
       
  970年   金瀬五郎、金懸(かなかけ)間歩より白金を掘り源満仲に献上(伝承)  
         
  1037年   摂津国能勢郡より銅を献上「百錬抄」  
         
  1211年   能勢郡に採銅所「左弁官下文」  
         
  1588年   冷泉為満(れいぜいためみつ)、多田銀銅山を見物  
         
  1661年   中村杢右衛門之重、奉行に任ぜられる  
         
  1661年   役人65人、銀山に着任  
         
  1662年   代官所などの諸施設が整備される  
         
  1664年   この年、多田銀銅山出銅高、最高を記録(75万5846斤8分7厘5毛)  
         
  1676年   大雨で川の水が大量に「大口・瓢箪間歩」に流れ込み約100人が犠牲となる
銀や銅の掘り出す量が少なくなり、銀山役人の数が減らされる。
 
         
  1772年   平賀源内、多田銀銅山を訪れる  
         
  1869年   銀山地役人の制、廃止(銀山役所の終焉)  
         
  1897年   島根の鉱業家・堀籐十郎によって銀山周辺が稼業される  
         
  1973年   日本鉱業多田鉱業所、閉山  
名称はアオキが植生していたことにちなみます。全長約60m。間歩の山上にはノミやタガネを使用して掘った手掘り跡を見ることができます。
   
 

Remnants of the Tada silver and copper mines abound across the entire Settsu district. There are those who believe they can be traced back to either the Nara or Heian periods.During the time of Toyotomi Hideyoshi, full-scale development and operations began at these copper mines, and it is said that their expenditures were such as to be sufficient to enrich the local finances of Osaka Castle. Directly controlled and owned by the shogunate, these copper mines reached the height of prosperity during the Edo period. Despite being decommissioned later in 1973, a mystical sense of tradition about this place continues to fascinate us today.

 
多田銀銅山を全国に発信
 多田銀銅山では、近年、「代官所跡遺跡発掘調査」などによって、ますますその歴史的価値が明らかになっています。そこで、猪名川町では、町歴史街道整備計画で銀山地区を重点地域と位置づけ、銀山の歴史・史跡を保存・継承し、来訪者が気軽に親しめるよう整備する計画を立てています。このほか、歴史街道(散策路)や観光ガイドの育成に積極的に取り組んでいます。
 歴史ロマンと豊かな自然に彩られた猪名川町は、こうして全国に発信され、その魅力をますます高めていくのです。
 
多田銀銅山地図
 
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かつて隆盛を迎えた銀銅山。この地で果てしない夢を思い描き、鉱石が掘り続けられた歴史は、約千年という。 寛文期の銀山町最盛期を表す銀山町間歩絵図(部分) The Tada silver and copper mines 第2章 めぐりゆく刻の軌跡 発展のとき 壱 採掘に使われた道具 産出した鉱石 採掘に使われた道具 産出した鉱石 代官所の門を移築したと伝わる旧家 青木(あおき)間歩 多田銀銅山を全国に発信